最高裁判所第二小法廷 昭和38年(オ)1365号 判決 1965年12月10日
上告人
田中一郎
右訴訟代理人
長沢盛一
伊場信一
田中一男
被上告人
森下作太郎
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人田中一男の上告理由第一について。
所論がすべて採用できないことは、論旨第二以下について説示するとおりである。
同第二について。
所論一は、所論期間中に支払われた賃料額を原審が甲一三号証、同一四号証をもつて認定しなかつたことの違法を指摘するが、右期間中の賃料支払額については当事者間に争のないことが原判決引用の第一審判決に明らかに摘示されているし、記録に徴しても、上告人がこれを争わない旨の陳述のあることが明らかであるから、所論は採るをえない。なお、所論は、上告人が原審で提出した昭和三八年四月九日付準備書面(所論は、四月十日付というが記録に徴し四月九日付の誤記と認める。)の陳述によつても判るとおり、上告人は右の点の自白をしていないというが、同準備書面を検討しても、所論期間中の支払賃料額を争う趣旨の記載はないから、右所論は採るに足らない(なお、甲一三、一四号証にも自白と相違する内容の記載はない。)。
所論二は、ひつきよう原審の専権たる証拠の取捨判断、事実の認定を非難するにすぎず、上告理由として採用できない。原判決は、所論甲号証のみを証拠として、上告人に賃料支払ないし賃料増額交渉に応じる意図の全くないことを認定しているのではなくて、右甲号証のほかに第一審および原審における上告人本人尋問の結果ならびに弁論の全趣旨を綜合して、右の認定をしていることが判文上明らかであるから、所論はすでに前提を欠き採るをえない。所論挙示の判例は、すべて本件と事案を異にし、適切でない。
所論三は、昭和三〇年四月分以降の本件賃料が月額五、〇八二円から五、二二〇円に合意増額されて、その後僅かな期間しか経過していないのに、被上告人が、同八月三一日付で九月一日到達の書面によつて同九月一日以降一挙に月額一八、五六一円に増額する意思表示をしたことは借家法七条に違反し、増額請求の効果を生じないというが、原判決がその認定の事情を考慮して、月額一二、〇〇〇円の範囲で右増額請求を有効としたことは首肯できる。従つて、所論は、採用できない。
同第三について。
原判決が、被上告人と上告人間で昭和三〇年七月三〇日頃に同年四月以降の賃料を月額五、二二〇円と確定合意した当時は、すでに本件家屋について地代家賃統制令の適用が除外されていたのでこの点は本件増額請求のなされた同年九月一日当時と異るところはなく、また右賃料確定時と増額請求時との間には僅かな期間しか経過していないので、その間に特に公租公課の増加、比隣地の価格の昂騰等があつたことは認められない、としながら、一方で、被上告人が昭和三〇年七月三〇日頃上告人の来訪を求め、とりあえず上告人から、昭和二八年六月分から昭和三〇年七月分までの統制賃料額(昭和二八年六月分から昭和二九年三月分までは一ケ月四、九六〇円、同年四月分から昭和三〇年三月分までは一ケ月五、〇八二円、同年四月分以降は一ケ月五、二二〇円の割合)相当の金員(但し、昭和三〇年七月分は内金三、七五六円のみ)を受領したのは、過去の賃料を清算する趣旨のもとに、やむなく応急的にしたことであつて、将来の賃料額も当然これによるべき趣旨のもとでなされたものでなく、被上告人としては、むしろ事態が明確になり次第直ちにその増額を求める意思を保留していたものであり、上告人においてもその事情を十分察知していたこと等の事情が認められるとし、本件増額請求の効力を判断するには、かねてより暗黙に増額が保留されていた期間の客観的事情すなわち、さきに統制令の適用が除外された昭和二五年七月一一日以降の経済事情の著しい変動をも併せ斟酌しうるとして、これによつて、本件増額請求権の発生要件の具備を判定している点に、何らの違法もない。
所論一は、原審認定のように将来増額する意思を保留して家賃の増額契約をすることは、借家法七条の規定を排除し、借家人に不利な特約であるから借家法上無効な契約であると主張するが、独自の見解にすぎず、採用できない。
また、原判決は、判示期間中の諸般の事情が本件増額請求を有効とするに十分であると判断しているのであつて、それが借家人に不利であつても増額請求の効力を発生せしめうるとは判示していないのであるから、所論二も採用できない。
同第四について。
所論は、原審における準備書面による主張を援用するが、上告理由として具体的な記載があるとは認められないから、採用するに由ない。
同第五について。
所論は、本件増額請求が不適法であることを前提とするものであるところ、原判決は、これを不適法とは判断していないのであつて、その判断は首肯できるから、所論は前提を欠き採用できない。
同第六について。
上告人に本件賃料支払の不履行がなく従つて解除権が被上告人に生ずることがないとする上告人の主張の採用できないことについては、原判決は十分に説示をしているのであるから、この点に判断遺脱、審理不尽があるとの所論は、採るをえない。
同第七について。
所論一は、上述のとおり採用できない。
所論二は、被上告人の心裡留保を云々するが、右は原審で主張なく、従つて認定判断を経ない事項であるから、採用できず、これを前提とする所論も採用するに由ない。
上告代理人長沢盛一の上告理由第一点について。
原判決が所論訴の変更を適法として上告人の異議に理由がないと判断したことは、正当であつて、右判断が民訴法二三二条に違反するとの所論は、採用できない。
同第二点について。
所論は、本件のように賃料増額請求権の行使の効果に争がある場合には、賃料増額請求の当否およびその額が裁判によつて確定するまでは相手方において増額賃料を支払う義務はないといい、また、裁判によつて適正な増額が確定するまでは相手方はその増額の範囲を知りえないのであるから、その間に増額賃料の請求があつても債務額の判らない債務を履行するに由ないから、債務履行の責を負うことはないというが、増額請求権の行使によつて適正額の増額の効果が生ずるのは、増額請求の意思表示が相手方に到達した時であつて、裁判によつてはじめてその額が創設的に定まるのではない。
すなわち、増額請求権の行使によつて客観的に定まつた適正な増額の範囲を裁判によつて確認するにすぎないのである。従つて、右増額請求を前提とする賃料の催告を受けた場合、適正額に比して催告額が過大のため催告の無効をきたすことのないと認められる本件事実関係のもとでは、債務者は本来適正額の増額分をもつて提供すべき義務があるのであるから、従前の賃料額と裁判によつて確認された適正額との差異が僅少であるとかその他信義則上債務の本旨に従つた履行の提供と見られるような特段の事情がある場合を除いて、債務者が従前の額をもつて相当であると考えた場合でも、従前の賃料額の提供のみでは債務の本旨に従つた履行の提供といわれないものと解する。そして、原審の認定によれば、本件において上告人は、被上告人からの賃料増額の交渉または請求に対して、すでに本件家屋の賃料が地代家賃統制令の適用を除外されており、しかも上告代理人の依頼により相当賃料額の鑑定がなされているに拘らず、右鑑定額を相当賃料として提供することもなく、従前の統制賃料額のみを供託したものであるというのであるから、これをもつて債務の本旨に従つた履行の提供とは見られないとした原判決の判断は相当である。その点に理由不備ないし理由そごの違法はない。
従つて、右違法を前提とする所論は、すべて採用できない。
上告代理人伊場信一の上告理由について。
原判決が上告人の債務不履行を判断した点に所論違法はない。
所論は、本件の如く賃料増額を合意した後僅かの期間を経過して四倍近い増額請求がなされたような場合には、当事者間でその当不当について見解の相違を生じるのは世間一般のことであつて、このような場合には、その増額請求による催告に対して債務者が応じないからといつて債務不履行とはいえない趣旨を主張するが、上告代理人長沢盛一の上告理由第二点について説示したとおり、右所論は採用できない。
また、賃料増額請求について争ある場合には、その額が判決によつて確定されるまでは、債務者において一応従前の賃料額を弁済供託すれば、それが著しく信義に反し賃貸借の存続を困難ならしめる特別の事情がない限り、賃貸借契約解除権は債権者に生じないとの論旨は、独自の見解であつて採用できない。従つて、右論旨を前提とする所論も採用できない。
なお、所論は、被上告人の本件解除権行使が著しく信義の原則に反し無効であるというが、原判決は、被上告人が上告人に対し本件解除を理由として本件家屋の明渡を求めるについて信義則に反するような事情は何ら認められないと判示しているのであるから、ひつきよう、右所論は原審認定にそわないことを前提として原判決の正当な判断を非難するにすぎず、採用できない。
よつて、右所論を前提として原判決が民法一条の解釈適用を誤つたことをいう点も、採用できない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。(奥野健一 山田作之助 草鹿浅之介 城戸芳彦 石田和外)